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まほろばブログ
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2024.01.01|その他
「まほろば(真秀ろば)」とは、日本の古語で、「素晴らしい場所」や「住みやすい場所」という意味で使われています。
「真秀(まほ)」という漢字には「物事が完全であること」という意味があり、場所を意味する接尾語である「ら」がついて「まほら」になりました。この「まほら」が転じて「まほろば」や「まほらま」という言葉になったといわれています。
「まほろば」は、「楽園」「桃源郷」のような理想郷をあらわす言葉として使われることも少なくありません。しかし、その由来となった倭建命(やまとたけるのみこと)の神話からは、全く違った印象を受けるのではないでしょうか。
『倭は 国の真秀ろば 畳づく青垣 山籠れる 倭し麗し
(やまとは くにのまほろば たたなづくあおかき やまごもれる やまとしうるわし)』-倭建命
たとえ、どれほどの悲境にあっても。どれほど、思い通りにいかない人生であっても。
最期の瞬間に思い出すのは、生まれ育った“ふるさと”なのかもしれません。
記憶の中でいちばん深く眠っているもの。青々とした美しい山肌。夏の照りつける日差しが何もない田んぼの畦道に降りそそぐ。時間が止まっていた。そう錯覚するほどに、果てしない世界が広がっていた。
ずっと忘れていたはずなのに、どうしてこんなに鮮やかに思い出せるのだろう。
手を伸ばしても届かないのに、どうしてまた戻りたいと思うのだろう。
人々はその場所を「まほろば」と呼びました。
それは決して失われない、心の底に刻まれた強烈な想い。千代に受け継がれる神話の中で、彼はいつも「まほろば」に帰ることを夢見ていたのです。
今から約1,300年前。元明天皇は律令制にもとづいた政治をおこなう中心地として、都を藤原京から平城京に移しました。遷都の2年後、太安万侶(おおのやすまろ)によって『古事記』がまとめられたといわれています。冒頭に記した和歌は、『古事記』のなかで倭建命が詠んだものです。
景行天皇の息子・小碓命(おうすのみこと)は、非常に気性が荒い少年でした。小碓命を恐れた天皇は、彼を遠ざけるために西国の熊曾建(くまそたける)兄弟を討つよう命じます。
当時、小碓命はわずか16歳の少年でした。西国で最も勢力をふるう熊曾建兄弟に、少数の兵のみを連れて旅立つ小碓命の姿は、周囲の人々からみれば飛んで火に入る夏の虫の如くみえたに違いありません。実際に、熊曾建兄弟の館は多くの兵士によってかたく守られており、彼らを正攻法で討つには小碓命の兵はあまりにも少なかったのです。
そこで小碓命は、たばねていた長い髪をたらし、叔母・倭姫命(やまとひめのみこと)からもらった衣装を身にまとい、少女になりすましました。美しい少女の姿にすっかり浮かれた熊曾建兄弟のすきをつき、見事二人を討ち果たしたのです。熊曾建兄弟の弟は、死に際に「西方に敵なしのわれら兄弟をしのぐ強者が、大倭(おおやまと)の国にはいたようだ」と武勇をたたえ、小碓命に「倭建命」の名をさずけました。 これが倭建命の名の由来です。
父親の命令通り、みごと西方征伐を果たした倭建命。しかし、景行天皇が倭建命の労を労うことはありませんでした。それどころか、天皇は倭建命にさらに東方への遠征を命じます。一度ならず二度までも父親に突き放された倭建命の悲しみは、どれほどだったのでしょうか。
「天皇既に吾を死ねと思ほせか、何ぞ、西の方の惡あらぶる人ひとどもを撃とりに遣して、返りまゐ上り來し間ほど、幾時いくだもあらねば、軍衆いくさびとどもをも賜はずて、今更に東の方の十二道の惡ぶる人どもを平ことむけに遣す。これに因りて思へばなほ吾を既に死ねと思ほしめすなり」
(訳:父は、わたしに『早く死ね』とお思いなのだろうか?西方征伐より帰って間もない私に、今また、兵卒も与えられず東方へ行けとおっしゃる。父は、わたしの死を願っておられるのか…)
倭建命は涙にくれ、叔母に打ち明けたのでした。
東国遠征は、苦難の連続でした。相武国では、野原の中で国造(くにのみやつこ)の火攻めにあいます。走水の海では、海峡の神が荒波を起こして行く手をはばみました。この時、后の弟橘媛(おとたちばなひめ)は「倭建命さま、どうか立派に役目を果たし、大倭の地にお帰りくださいませ」と言い残し、みずから海に入って荒波をしずめます。倭建命は父親から見捨てられただけではなく、愛する妻までも失ってしまったのです。
数々の苦難に見舞われながらも、倭建命は東国の勇敢な神や人々を下しました。しかし都へ帰る途中、伊吹山の神を討ちに行き、逆に大氷雨を浴びせられます。倭建命は瀕死の体で都を目指しますが、ついに能煩野(のぼの)で力尽きてしまいました。 倭建命の魂は、大きな白鳥の姿となって空を駆け上がり、西方へ飛び立ったといわれています。
倭建命は、最期に和歌を詠んだといいます。
“倭は 国の真秀ろば 畳づく青垣 山籠れる 倭し麗し”
(倭は、国の中でもっともすばらしい場所だ。青々とした垣根のように重なりあった山々が取り囲む、うるわしき我がふるさとよ)
現代では、倭建命が命を落とした能煩野(現在の三重県亀山市)にある能褒野王塚古墳に、彼が眠っているとされています。たとえ、どれほどの悲境にあっても。どれほど、思い通りにいかない人生であっても。倭建命が最期に想ったのは、生まれ育った“ふるさと”でした。
そして倭建命は、愛するふるさとを「まほろば」と表現したのでした。
「まほろば(真秀ろば)」とは、現代では「素晴らしい場所」という意味で使われています。
語源になった「真秀」には「より整って完全なこと。十分なこと。」という意味があります。また、和歌では「真帆(追風を受けて帆走する船の、十分に展張された帆)」に掛けて使われることが多い言葉です。
「素晴らしい場所」を意味する別の言葉として、「桃源郷」を思い浮かべる人もいるでしょう。しかし、私は「桃源郷」と「まほろば」は似て非なるものだと考えています。
桃源郷は、中国 六朝時代の詩人 陶淵明(とうえんめい)の「桃花源記」に描かれている桃林に囲まれた平和で豊かな別天地が語源になっているといわれています。言い換えるなら、俗界を離れた「理想郷」。そこは苦しみや悲しみもない、天国のような素晴らしい場所に違いありません。
一方でまほろばは、決して理想郷ではないと私は考えています。時には、苦しいことだってあるでしょう。震えるほど悲しくて、逃げ出したくなることもあるかもしれません。
しかし、それらも含めて最終的には「ここに存在できてよかった」と思える場所。今は遠く離れてしまったけれど、最終的には戻ってきたいと思えるふるさとのような。そんな素晴らしい場所を、人々は「まほろば」と呼ぶのではないでしょうか。
茶人・千利休にはこのような逸話があります。ある日のこと、利休の弟子が庭の掃除をしていました。弟子は、庭に塵ひとつないほど完璧に掃除をすませました。ところが利休は「まだ掃除は終わってはいない」と、せっかくきれいになった庭に一握りの落ち葉を、はらはらと散らせたそうです。その先に、まことの「美」があると信じて。
利休の弟子が目指したのは、たとえるなら「桃源郷」だったのかもしれません。落ち葉ひとつない、理想の場所。そこは、きっと素晴らしい場所に違いありません。理想が全て叶う、完璧な場所です。
しかし、私たちは人生の大切な局面で、桃源郷ではなく「まほろば」を求めるようです。まほろばに帰りたいと思うのです。まほろばは決して完璧な場所ではありません。それでも美しいと思うのです。まほろばとは、心の底に刻まれた強烈な想い。まほろばとは「心の中に灯る希望」なのかもしれません。
AUTHOR天野 勝規
株式会社まほろば 代表取締役
士業専門のホームページ制作会社「株式会社まほろば」の代表取締役。大阪教育大学 教育学部 卒業。総合小売業(東証プライム上場)、公益法人での勤務を経て29歳で起業。
独立開業時の集客・顧客開拓に関する相談から、年商数億円規模の事務所のマーケティング顧問まで幅広い対応実績。15年間で3,000事務所以上からご相談・お問合せ。
ホームページを活用しつつも、SEO対策だけに頼らない集客・顧客開拓の仕組みづくりを推奨している。
【保有資格】
社会保険労務士、年金アドバイザー2級
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